失敗した。迷惑をかけた。取り返せないこともある。
それでも、今日も生きている。
自分の話をするのは、恥ずかしい。失敗を並べるのも、人に迷惑をかけたことを文章にするのも、簡単ではない。それでも、やろうと思った。
「やめようと思えばやめられる」——そう言い続けて、気がついたら何年も経っていた。
お酒のせいで失ったもの、壊したもの、傷つけた人がいる。それを全部ここに書く。きれいに見せるつもりはない。同じように苦しんでいる誰かが、このページを読んで「自分だけじゃないんだ」と思えたなら、それだけでいい。
高校、大学、サラリーマン——普通だった頃
高校二年生の夏、友人の家で初めてアルコールというものを飲んだ。缶のカクテル、甘くて弱いやつだ。一缶飲み干す前に、世界がほんの少しだけ傾いた。
気持ちいい、とその時思った。ふらふらして、笑えてきて、何もかもどうでもよくなるような感覚。あれが最初だった。思えばあの時、何かが始まったのかもしれない。
大学生になっても、酒に強い方ではなかった。生ビールを二杯飲めばだいぶ酔っ払う、いわゆる普通の体質。飲み会は嫌いではなかったが、量は飲めなかった。それで十分だったし、それが自分だと思っていた。
社会人になってIT系の会社に入ると、飲み会というものがほとんどなかった。忘年会と夏休み前に一回、年に二度だけ。それでも毎回必ず参加した。賑やかな場が、何となく好きだったのだと思う。
二十六歳で結婚して、子供が二人生まれた。その頃のお酒は月に一回飲むかどうか。仕事は忙しかったし、家に帰れば子供が待っていた。それが普通だった。それが自分の生活だった。
三十七歳の時、独立した。十五年勤めたサラリーマン生活に区切りをつけて、会社を立ち上げた。人生が変わるとしたら、ここからだと思っていた。
ある意味では、その通りになった。ただ、思っていた方向とは全然違う形で。
「一杯だけ」のはずが、深夜二時になった
山田と初めて飲みに行ったのは、経営者の勉強会が終わった秋の夜のことだった。
会場のビルを出ると、外の空気は少し冷たかった。エレベーターを降りたところで、一人の男が煙草に火をつけながら声をかけてきた。
「同じ役職になるみたいですね。一杯だけどうですか」
山田だった。顔がよくて、声が低くて、場慣れした雰囲気がある。勉強会でも周りをよく笑わせていた男だ。断る理由を、私は見つけられなかった。
連れて行かれたのは、雑居ビルの三階にあるスナックだった。ドアを開けると、煙草とフルーティな香水の匂いが混じった空気が流れてくる。カウンターが十席もないような小さい店。ママと呼ばれる五十代くらいの女性が「いらっしゃい」と言って笑った。
山田はすでに常連のように振る舞っていた。カウンターに腰を下ろすなり「ママ、ウイスキーソーダ。あ、友達も同じで」と言って、カラオケのリモコンをさっと手に取った。
歌がうまかった。顔もよくて声もよくて、隣に座った女の子たちに慕われていた。あの人はこういうところにいるのが、本当に似合うんだと思った。
その夜、私は隣に座ったお姉さんと話をした。仕事のこと、会社のこと、親会社の役員がうるさくてとか、毎月の会議がしんどいとか。他愛ない話だ。向こうも仕事だからうなずいてくれているだけかもしれない。それでも、その夜はじめて気がついた。
普段、誰にも話を聞いてもらえていなかった。
家では妻がいる。でも仕事の話をしても興味がなさそうだし、愚痴を言える場所がなかった。会社では部下に弱みを見せるわけにはいかない。ただうなずいてくれるだけでいい、そういう場所が、自分には必要だったのかもしれない。
気づいたら深夜二時だった。「一杯だけ」のはずだった。山田が「もう一軒」と言い出した時、私は断らなかった。
それからは山田に誘われるようになった。最初は「またか」と思っていた。だが仲良くなるうちに、それが楽しみに変わっていった。今日は彼から連絡がないな、と思う自分がいた。気づけば、私の方から誘うようにもなっていた。
毎回「一杯だけ」と言いながら、深夜一時、二時まで飲み続けた。記憶があやふやなまま家に帰る夜が増えた。カラオケで夜明けまで歌って、朝帰りしたこともあった。
気づけば一回の飲み会で十杯以上飲んでいた。二杯で酔っ払っていた人間が、十杯飲んでも「まだいける」と思うようになっていた。体が変わったのか、慣れたのか。たぶん両方だ。
二人が三人になり、三人が四人になった。飲み好きの経営者仲間のグループができあがっていった。やがてキャバクラやクラブにも行くようになった。一回のキャバクラで四万、五万は飛ぶ。週に三回通えば、月に五十万円近くが消えていった。
仕事上のつながりもできた。そういう場所に来る人は羽振りがいい人が多くて、意外と仕事が入ってくることもあった。それが「これは仕事の付き合いだ」と自分に言い聞かせる、最初の言い訳になった。
今では悪友だったんじゃないかとも思う。ただ正直に言えば、あの頃の自分には必要な居場所だった。
一人で通い始め、やがて一線を越えた
四十一歳を過ぎた頃から、一人でも夜の店に入り浸るようになっていた。
グループで行くのとは違う。一人で行く、ということの意味を、あの頃の私はわかっていなかった。いや、わかっていたかもしれないが、見ないようにしていた。
気に入りの女の子がいる店に、毎週のように通った。そのお店だけで毎回四十万円ほど使った。「これが飲みたい」と言われれば、かっこをつけたかった私はなんでもいいよと言ってしまっていた。値段も確認せずに。
そのうち、一人の女性を落とすことに成功した。
十歳以上年下で、見た目がとても綺麗だった。男として浮かれていたのは正直なところだ。アフターに誘い、昼にランチを一緒に食べるようになり、やがてお付き合いをすることになった。
私には妻がいた。子供が二人いた。それでもその時の私には、そんなことはどうでもよかった。バカだった、と今は思う。ただ単純に、バカだった。
携帯ばかり触るようになった。帰りは毎晩遅くなり、週末も「仕事」と言って外に出るようになった。
それまで土日は家にいた人間が、突然そうなるのだから、妻が怪しまないわけがない。
探偵がついていた。全部バレていた。
妻がそれを私に告げたのは、子供たちの前だった。冷静に、淡々と、事実だけを言った。感情的になることも、声を荒げることもなかった。その冷静さが、かえって怖かった。
怒りが込み上げてきた。子供の前で言うことへの怒りと、自分が稼いだお金で自分が監視されていたという、理不尽な気持ち。後から考えれば滅茶苦茶な話だが、その時の私にはそう感じられた。自分が悪いのに、腹を立てていた。そういう人間だった、あの頃の私は。
結局、その女性への慰謝料を私がこっそり肩代わりした。お店での散財に慰謝料の立替が重なり、お金の工面に追われ続けた。それでも、その女性と別れたくなかった。どこかが、完全におかしくなっていた。
十八時間飲み続けた日のこと
昼の十二時から飲み始めた日があった。
気がついたら夕方になっていて、夜になっていて、深夜になっていた。六、七軒のお店をはしごして、女の子を呼んで、どんちゃん騒ぎだった。気がついたら十八時間が経っていた。
その途中で、回転寿司に入った。日曜の昼間のような感覚で入ったが、実際に何時だったのかよく覚えていない。店の中には家族連れが何組もいた。子供を連れた親たちが、普通に昼ご飯を食べていた。
大の大人が、大声で下品な話をしていた。それが、私たちだった。
呼んだ女の子たちとテーブルを囲んで、周りへの配慮はゼロだった。隣のテーブルの子供が、こちらをちらっと見た。その視線が今でも忘れられない。
本当に迷惑な大人だったと思う。子供から尊敬される親ではなかった。そんな当たり前のことに、あの頃の自分は気づいていなかった。
「手遅れになりますよ」と言われた日
四十歳を過ぎた頃から、健康診断で肝臓の数値が引っかかるようになった。
要検査の紙が毎年届く。でも仕事が忙しかった。時間がない。そのうちやろう。そうやって毎年やり過ごしていた。
健康診断の二日前、小便をしたらオレンジ色の血尿が出た。さすがに少し驚いたが、飲みすぎかな、と思った。そのくらいにしか思っていなかった。
四十五歳の健康診断。肝臓、腎臓、尿の数値がすべて五段階の五になっていた。一から五で、五が一番悪い。全部最悪だった。
その日、検査が終わった後、技師の伊藤さんに「少し裏に来てください」と呼ばれた。何事かと思って席を立つと、個室に通された。伊藤さんは検査結果の紙を机の上に広げ、数値に赤いラインを引きながら、静かにこう言った。
「これ、ちゃんと検査しないと手遅れになりますよ」
えっと思った。本当に?と思った。やばいな、とも思った。でも正直、その場では実感がなかった。仕事が忙しかった。そんな時間はないけど、まあ、そのうちやらないとな。その程度だった。
幸い精密検査では大きな病気は見つからなかった。だが先生には「この数値では何かあってもおかしくない」と言われた。その言葉が今でも耳に残っている。
それでも、お酒はやめなかった。やめようと思わなかった。体が壊れかけていることに、どこか他人事のような感覚があった。
覚えていない。でも映像には残っていた
あの夜のことは、ほとんど覚えていない。
二件目のスナックバーで、テキーラの観覧車を二回やった。テキーラを五杯以上、その前にハイボールを十杯以上飲んでいた。時間の感覚が消えて、何を話していたかも覚えていない。ただ気分が高揚していたことだけは、なんとなく覚えている。
深夜一時ごろ、タクシーに乗り込んだ。
いつもと違うルートだと気づいた、らしい。大回りをしているだろうと運転手に言った、らしい。そして殴りつけた、らしい。
「らしい」というのは、覚えていないからだ。
気づいたら警察署にいた。薄暗い部屋の、硬い椅子に座っていた。頭がぼんやりしていた。
担当の警察官が、タクシーの録画映像をモニターで再生した。画面の中の人間は確かに私だった。何かを怒鳴り散らしていて、運転手に手をあげていた。
見ていて、映像の中の人間が自分だという感覚がなかった。でも確かに自分だった。
いい年をして、何をやっているんだ。
映像を見ながら、そう思った。惨めだった。情けなかった。お酒が自分を、こんな人間に変えてしまっていた。普段は喧嘩なんてしない、どちらかというと穏やかと言われる自分が。
刑事事件として起訴され、タクシー会社への損害賠償をきっちり支払った。それが当然だと思った。
今でも悔やんでいること
前日の昼の十二時から、朝の五時まで飲んでいた。十七時間だ。
その日は家族で山登りに行く約束をしていた。出発は朝七時。子供たちは前の日から楽しみにしていたらしく、ランドセルの代わりにリュックを玄関に用意して寝ていた。
五時に帰宅した私は、そのままベッドに倒れ込んだ。靴を脱いだかどうかも覚えていない。起こされた記憶もない。
気がついたら午後一時だった。
ベッドに横たわったまま、自分の上着に嘔吐物がついているのに気づいた。頭が痛かった。部屋の光が眩しかった。しばらく何が起きているのか、わからなかった。
あ、やってしまった。——そう思った時には、もう家族は出かけた後だった。
子供たちは、父親なしで山に登った。妻が一人で連れて行った。私は家でひとり、二日酔いで天井を見ていた。
この頃から、家族でどこかに行くことはなくなった。
これは今でも悔やんでいる。お金のことでも、仕事のことでも、事件のことでもなく、この山登りのことが、一番申し訳なかったと今でも思っている。
仕事と家庭、二つのストレス
悪いのは私だ。それだけは最初に言っておく。
ただ、なぜここまでになってしまったのかは、自分なりに考えてきた。言い訳ではなく、自分を理解するために。
一つは、仕事のストレスだ。
私は経営者とはいえ、親会社がある雇われ社長だった。毎月の経営会議で、親会社の役員に売上を詰められた。成果を出していないわけではない。会社の売上は八千万円を超え、経常利益も千万円以上あった。それでも「もっと」と言われ続けた。そして私の年収は七百二十万円だった。
報われていない、という感覚が常にあった。自分で取ってきたお客さんなのだから、自分の売上にしていいじゃないかという理屈で副業をした。そのお金が、夜の店に消えていった。
もう一つは、家庭だ。
妻は浪費家だった。ブランドものや贅沢品というわけではない。子供の教材に百万円以上使って、ほとんど使わない。バーゲンセールで三十万円分の服を買い込んで、着ない。突然「占い師になりたい」と言って養成講座に何十万も払う。ネットワークビジネスにはまって空気清浄機を五台買う。
家の中はゴミだらけで、料理もしない。私が何か捨てようとすると怒られた。ゴミの日に出しておいたものが、翌日玄関の前に戻されていたこともあった。もしかしたら何か病気なのかもしれない、と思ったこともあった。
子供二人の教育費だけで月三十万円以上かかっていた。妻も働いて月二十万ほど稼いでいたが、それでも常に金が足りなかった。
仕事でも、家でも、逃げ場がなかった。だからお酒が逃げ場になった。
それでも、悪いのは私だ。弱かったのも私だ。ただ、そういう背景があったということは、自分自身のために理解しておく必要があると思っている。
2026年5月25日
ある経営者と話をした。その人は一年五ヶ月、お酒を飲んでいなかった。
毎日飲んでいた人が、ある時から一切やめた。それだけ聞いてもすごいと思ったが、さらに驚いたのはその後の話だった。付き合う人が変わった。睡眠がちゃんと取れるようになった。体調がだいぶよくなった。人生の見え方が変わった。
「そろそろ、良い年の取り方をした方がいいと思って」
その一言が、妙に刺さった。
良い年の取り方。——自分はそれをしてきたのか、と考えた。
その夜、不思議なくらい、お酒を飲みたいという気持ちが薄れていった。誰かに止められたわけでも、また事件が起きたわけでも、体が動かなくなったわけでもない。ただ静かに、気持ちが変わっていた。
お酒がなくなることで、それまで見えていなかった景色があることに気がついた。朝きちんと起きられること。頭が澄んでいること。約束を守れること。小さなことが、ひとつずつ戻ってくる感覚があった。
そして、一つのことに気づいた。
私はずっと「付き合いだから飲む」と言い続けてきた。仕事のため、人間関係のため、仕方なく飲んでいるんだと。でも違った。「付き合い」という理由を無理やりこじつけて、飲みたいから飲んでいたのだ。言い訳は、いつも後からついてくる。
自分が弱かっただけだ。それだけのことだった。
2026年5月25日から、お酒をやめた。
正直に言うと、禁断症状のようなものはなかった。体がきつい、どうしても飲まずにいられない、そういうことはなかった。むしろ、もうお酒から距離を取りたいという気持ちの方が強かった。
ただ、一度だけ飲みたいと思った瞬間があった。
財務の研修で、二日間缶詰になった。みっちりと頭を使い続けて、夕方になった頃にふっと思った。一杯飲みたい、と。
そこで別の気持ちが勝った。せっかくここまで飲まずにいたのに、ここで飲んだら勿体ない。
崇高な意志でも、強い決意でもない。ただ「勿体ない」が勝っただけだ。
それでいいと思っている。あの時に思いとどまれてよかったと、今も思う。
これからどうなるかは、まだわからない。失ったものは戻らないし、傷つけた人への謝罪は続く。格好いい話じゃない。それは最初に言った通りだ。
それでも、今日も飲まなかった。それだけは確かだ。
離れてわかったこと、これからのこと
今は別居中で、子供たちとはたまに会う。頻度はとても少ない。
会うたびに、悲しいなと思う。でもその悲しさは自分だけのものかもしれない。子供たちがどう思っているかは、よくわからない。それが余計に、しんどい。
離れてみてわかったことがある。
自分は子供と、ちゃんと関わっていなかった。仕事を理由にして、逃げていた。
めんどくさい、疲れる。正直そう思っていた。子供と向き合うことから逃げるために、仕事という言い訳を使っていた。お酒が逃げ場だったように、仕事もまた逃げ場だった。
それが今では、あの時間がどれほど貴重だったかと思う。子供が小さかった頃の、何でもない夜ご飯の時間。寝かしつけながら話した他愛ない会話。あの時間をちゃんと生きていれば、と思う。
取り返せないことは、ある。それはわかっている。
ただ、これからどう関わっていくかは、まだ自分で決められる。そう思って、今日も生きている。
20代後半からお酒に振り回され、長い時間を無駄にした。人を傷つけた。仕事も失った。2026年5月25日から禁酒を開始。正直なことだけを書いていく。
回顧録は過去の話。ここからは、今の話を書いていきます。
お酒をやめてから一番変わったのは、目線だと思う。見えなかったものが、見えるようになってきた。
人もそうだし、食べ物もそうだし、景色も、考え方も。何かが変わった、というより、ずっとそこにあったものに、やっと気がついてきた、という感じに近い。
これまでの自分は、楽しければいいという気持ちが強かった。お金を持ってチヤホヤされたい。いいところに行きたい。いいものを手に入れたい。女性にモテたい。そういうものを手に入れようとすることが、生きることだと思っていた。
でも今は、どう自分が生きていくかを考えるようになった。何を見て死んでいくか。誰と関わって死んでいくか。どんな時間を過ごし、どんな生き方をしていくか。
それが良いことかも悪いことかも、まだわからない。ただ、そういうことを考えられるようになってきた。
人生を嗜む、ってこういうことなのかもしれない、なんて思っている。